毎日新聞−2001年(平成13年)06月12日(火)
新聞時評 |
−神戸女学院大教授 生野 照子−
近ごろ親による虐待事件が相次ぎ、育児の様相が基本的な部分で変わっているのではないかと懸念されている。そうした中で、2人の女性記者による「難しい『母になること』」 「難しくない『母になること』」(「記者の目」5月11日・30日朝刊)は、時節をえたテーマであった。社会部と生活家庭部という異なった立場の記者が相対するという方法も目新しかった。意見のバランスがとれるし、読む方も問題点がわかりやすい。今後もこうしたやり方を大いに取り入れてほしいと思う。
さて、両記事は「母になること」が難しいかどうかについての論議であった。両論とも理想的育児にとらわれる母親像を描き、母になることの難しさを理解しようという提言と、難しく考えないことから始めようという提言を行っていた。ともに母親としての体験をふまえて真摯に考える姿勢が伝わってきたが、残念ながらもうひとつ踏み込みが足りないと感じられた。
「多彩さ」に迷う親
「育児のあり方は多彩でいい」という論旨も使い古されているのではないか。多くの親はすでにもう一歩先んじており、多彩になったことから生じる難しさに直面しているのである。そして、多彩であることの″程合い″に迷っている。社会の要請と子どもの自由性とをどう釣りあわせればよいのか、親自身が楽しむことと利己的であることの境日はどこにあるのかなど、現実とのバランスは極めて難しい。育児を癒やす浮輪は、このバランスを取るために求められている。
また「自分なりの育児」は「それでいい」と容認することではない。″勝手な育児″とは異なって、世間が決めた安全枠を見切る勇気と、その結果生じる不安に耐える力が要求される。多彩であることはイエス・ノーが出せない″不確か感″に耐えることであり、しかし、これこそが育児の本質であって、子どもが親から本当の自由性を学びとる手立てにもなる。育児の「育自」は自己愛でなく、子とともに手探りするプロセス。苦楽合わせて充実につなぐ支援が必要だろう。
さて一方、現実の多様化に応じて保育の拡大や教育改革も打ち出されてきた。制度を受ける側が、積極的に検討して発言すべき時期がきたのだといえよう。21日朝刊の「教育の森」は教育改革案を取り上げ、個性教育のジレンマと今後の方向性について、読者の具体性ある発言を伝えていた。
教育には「受け身」
しかし、教育に対して日本の保護者は、まだまだ受け身であるように思う。同欄の「東京・品川区の学校選択制導入から1年」(6月4日朝刊)では、学校側がどうかという視点が主になっていたし、授業参観を取り上げた「キッズしんぶん」の井戸端編集室(5月26日・6月2日夕刊)でも、学校のコメンテーターとしての保獲者の役割が浮き立ってこなかった。保護者の意見を学校に反映させなければ何のための授業参観なのか。このあたりの問題点など、保護者がもっと主体性をもって教育とかかわるよう、啓発的な一工夫がほしいと思われた。
かたや、5月28日朝刊の「教育の森」では、「結構頼もしい10代、いるゾ」として、カウンセリングやNPO、世界へのニュース配信で活躍する若者について報道し、前向きに発言し行動する次世代への希望を抱かせた。こうした若者たちが、その子育てをも前向きに変えてくれることを期待したい。
◇
この論評は大阪本社発行の紙面をもとにしました。