毎日新聞−2001年(平成13年)05月18日(金)
社説 |
出会い−美しい言葉だと思う。人と人との出会いは、しばしば人生を変える。だが、「出会い系サイト」となると、話は別だ。
女子大生がインターネットの出会い系サイトを通じて知り合ったメール友達の男に殺される事件が京都府で起きた。男は別のメール友達の女性を殺した疑いも持たれている。
このところ、出会い系サイトがからむ事件が目立つ。1月、宇都宮市の高校3年生が出会い系サイトで親しくなった埼玉県の主婦を包丁で刺した。4月、茨城県の主婦が18歳の少年に殺された。少年は北海道に住んでいたとき、出会い系サイトで主婦と知り合った。今月はじめ、メール友達の女性を誘拐して風俗店で働かせていた男2人が広島県で逮捕された。
出会い系サイトはインターネット上でメール友達を紹介するサービスである。インターネット対応の携帯電話の普及で急増した。1000以上あると言われる。
インターネットは本当に便利である。パソコンや携帯電話を通じて瞬時に世界中の情報が得られる。個々人が情報を発信することで、人と人との結びつきもさまざまな形で可能になった。
だが、ネット社会は膨大な数の人たちが匿名で行き来する場でもある。匿名となれば、誰にも変身願望があるだろう。出会い系サイトでは、苦もなくその願望が遂げられる。仮想の自分をネットに登場させ、他人と出会う。だが、相手も仮想の自分を演じている。出会いは仮想世界の出来事なのだ。
ここに、ネット社会の出会いの危うさがある。出会い系サイトがからんだ事件の背景には、こうした仮想と現実とのギャップが見え隠れする。現実世界には危険が付き物だ。仮想世界を楽しむのはいいとしでも、現実世界では危険から身を守る知恵を持たなくてはならない。
それにしても、今なぜ、出会い系サイトなのか。多くの人々が、新し出会いを求めていることは分かる。だが、その手段が、どうして出会い系サイトなのか。
億病な人たちが増えている。とりわけ若い世代に目立つ。生身の自分をさらけ出すのが怖い。生身の自分が他人と接すれば、ときに傷つく。それが怖いのだ。他人に生身の自分をさらして出会いを得るのはごめんだ。だが、出会いはほしい。そんな人に出会い系サイトはおあつらえ向きだ。
人との出会いは、多かれ少なかれ相手と絆を結ぶことである。絆は犬や馬をつなぐ鎖やひもを意味した。「ほだし」と読めば、「手かせ」、「足かせ」を意味する。つまり、束縛である。精神医学者の大平健さんは「束縛なしの絆はありえない」と言う(「やさしさの精神病理」)。絆と束縛の両方をかかえ込むことなしには、人との本当の出会いは得られない。
ネット社会は今後さらに加速するだろう。私たちは、生身の自分が生きる現実世界をきっちりと見すえつつ、ネット社会の賢い住人にならなくてはいけない。