読売新聞−2001年(平成13年)05月16日(水)
解説と提言 |
テレビ朝日のダイオキシン報道をめぐる訴訟で、さいたま地裁は十五日、原告・農家側の請求を棄却したが、「不適切な表現」で混乱を招いたテレビ報道には大きな教訓を残した。 解説部 鈴木 嘉一 |
テレビ朝日系の「ニュースステーション」は1999年2月、埼玉・所沢産の野菜から高濃度のダイオキシンが検出されたと報道したが、その後、ホウレンソウと思われていた高濃度の「葉っぱもの」はせん茶だったことが分かった。しかも、スタッフは民間調査機関が提供したデータの中身を正確に把握しないまま、放送していた。
当時の伊藤邦男社長は「数値の公表には公共性があったものの、表現や表示で適切さを欠き、データの説明も不十分。結果として農家にご迷惑をかけた」と公式に認め、陳謝した。
地元の農家が損害賠償や謝罪放送などを求めた裁判で最大の争点となったのは、こうした伝え方をどうみるかだった。判決は「不適当な表現があった」と指摘しながらも、「放送は主要な部分で真実」として原告の訴えを全面的に退けた。
被告側の秋山幹男弁護士が「放送は予期せぬ結果を招いたが、補償の義務を負わされると、報道は萎縮する。報道の自由を認めたことに意義がある」と評価するように、判決は報道の公益性を明確に認定した。
一方、農家側の落胆は深い。地裁前で待機していた約250人の原告団は「不当判決」の横断幕を示された瞬間、言葉を失った。地元のJA幹部は「金銭が目的ではなく、報道のけじめを求めただけにショックだ。こういうことがまた起こるのではないかという心配がある」と、報道への不信感を語る。
ジャーナリズムに携わる者にとって、数字を正確に伝えることは「イロハのイ」に属する。特に、独自データを出す場合、その信頼性はもとより、サンプル数や調査の前提条件を押さえるなど、慎重を期さなければならない。だが、テレビ朝日の番組には、こうした基本的姿勢と自らの影響力への自覚が欠落していたと言わざるをえない。
現在、メディアに対する国民の視線は厳しさを増している。人権やプライバシーをふみにじるセンセーショナルな報道、事件・事故の被害者や家族への強引な取材、青少年への配慮に欠ける過激な性・暴力表現……。これらへの批判を追い風として、公権力によるメディア規制の動きが相次いでいる。
三月末、国会に提出された個人情報保護基本法案では、「報道目的の個人情報は法の対象外」とするよう求めたメディア例の主張が十分受け入れられなかった。また、法務省の人権擁護推進審議会は近く、メディアによる人権侵害の救済策も盛り込んだ最終答申をまとめる。
さらに、自民党はテレビ報道への監視を強めている。二月には「放送活性化検討委員会」を設置、放送の公平・中立性をめぐって制度改正の検討を始めた。先月発足した「報道番組検証委員会」は、全国規模で組織している「報道モニター」からの意見などを基に、「不公正な報道を洗い出す」という。
放送界では「夏の参院選をにらみ、テレビ報道をけん制するためか」と警戒している。
こうし情勢の中で判決の意味を考えると、公益性を担う報道機関の責任はますます重い。政治や行政による規制・介入を招かないためには、今回の反省と教訓を番組などに反映させる不断の努力が求められる。