読売新聞−2001年(平成13年)05月16日(水)
幼いころの環境やしつけは、その人の一生を左右するとよく言われますけれど、まさに私の場合がそうでした。私が料理と花という二つの道を歩むようになったのは、子ども時代に準備されていたように思えるのです。
料理好きになったのはなぜかと考えると、思い当たるのは3歳のころのことです。母が病弱で、私は埼玉の母の実家で祖父たちと一時暮らしていました。四百年も続く旧家なんですよ。
世話好きな祖父は、不遇な絵かきさんにただで持ち家を貸してあげたりしていたのですが、その絵かきさんもひとかどの日本画家になっていて、毎月祖父を自宅に招いて京料理でもてなして下さったのです。私も祖父にくっついておよばれしました。一の膳、二の膳と供される京料理の美しさ、おいしさに幼いながら感銘を受けたものです。
花の絵を描くのも大好きでした。広い屋敷内にはモクレンやツバキの大木があり、一年中花が絶えることがありませんでした。遊び相手のいない私は、花にもの言って遊んでいました。
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父は、朝鮮の平壌で病院長をしていました。日韓併合(1910年)の前のことです。大隈重信侯の勧めで同仁病院という大きな病院を建てて、土地の男子に医学を教える仕事に生涯をかけていたのです。4歳の時に母が亡くなり、その2年後に継母と一緒に平壌に行き、高等女学校まで過ごしました。
父は、権力者であったはずなのですが、おごりがない人でした。私が10歳のころでしたっけ。大切にしていたべっ甲のおさげ留めをなくして、がっくりしていたことがありました。そしたら、窓から「お嬢さん、これではありませんか」と、庭掃きの男の子が届けてくれましたの。私、うれしくて、「よかったあ」と跳び上がりました。父は見ていたのでしょうね。「なぜお前は『ありがとう』とすぐ感謝の言葉が出ないんだ」と、ひどく怒られました。
その男の子は孤児で、かわいそうに思った父が施設から引き取った子でした。父は、軽んじたような私の態度が許せなかったのでしょう。父にとって、家にいる子は皆等しくかわいかったのです。私はその時、人に対する分け隔てのない思いやりの心を教わりました。
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父は大の洋食党でした。継母も料理が上手で、時々ホテルからシェフを呼んで正式なフランス料理を習っていました。私も10歳ぐらいから母を手伝いながら、ケーキを焼いたりコロッケを作ったりしていて。こんな環境ですもの、自然とおいしいもの好きになっていったのでしょう。
継母から教わったことは料理もそうですが、美しい話し方でした。宮家に伺っても何とか言葉通いに困らなかったのは、縦母のおかげです。
やはり人生の基本的なことは、子ども時代から周りに学ぶことが多いのではないかしら。私自身、父や母の振る舞いを見て育ったことをありがたいと思っています。