毎日新聞−2001年(平成13年)04月17日(火)
最先端<米国出版事情> 米国の食文化を壊したマック
総年商14兆円といわれるアメリカのファストフード産業を枇判的に検証した本が話題になっています。エリック・シュレッサー著「ファストフード・ネーション アメリカの食事、その暗い面」 (Fast
Food Nation The Dark Side of the American Meal)で、「ニューヨーク・・タイムズ」紙4月1日付ベストセラーズのノンフィクション部門6位に入っています。
前半は、ファストフード産業の歴史を追いながら、衝撃的な統計(たとえば、平均的アメリカ人は週にハンバーガー3個とポテトフライ4個を食べ、8人に1人は生涯に一度はマクドナルドで働くことになる)を紹介し、アメリカの食文化と風景を破壊した罪(至る所にファストフードの店がある)を指摘。後半は、調査ジャーナリズムの手法を用い、商品の栄養および衛生上の問題点と、安全性に対する企業の消極的取り組みや、政府の及び腰の規制を批判します。
メディアでも大々的に取り上げられ、さまざまな雑誌・新聞が特集を組んだほか、著者はTVのトーク番組やニュース番組のゲストとして引っ張りだこのようです。 (翻訳家・星川正秋)
私の読書 |
−「人間のロマン」を語りつくす−
冒険家とはどのような人を指すのか。字統(白川静著の「冒」の項には頭に甲衣(兜)をつけて進撃する意とある。「目をおほうものは見る所が無きが若し」と盲進の意とするが、胄冒(チュウボウ=鎧と頭巾)をつけて進むので「冒険」の意となり、無頓着に行動することをいう、とある。
「笑って死ねる人生がいい」(集英社)を読んで、こういう人生もあるのだなあとつくづく思った。最近も「このごろの若者は……」という意見をよく聞く。しかし、大場満郎氏のような冒険家にならなくとも、親に迷惑をかけない程度のある種の冒険を目指すのは若者に与えられた特権だと思うが、いかがなものであろうか。
大場氏(1953年生まれ)は世界で初めて北極、南極の両極単独徒歩横断を果たした「歩く冒険家」として知られ、昨年6月、99年植村直己冒険賞を受賞した。
83年にアマゾン6000`決死のいかだ下り、95年には2度目の北極海横断に挑戦したが、途中凍傷にかかり冒険を断念して帰国。聖マリアンナ医科大学で右手親指と薬指を第一関節から切断、右手中指と左手中指・薬指を削り、足指はすべて切断してしまった。
それでも諦めることなく、次の挑戦のため資金や装備(クマ対策を含む)、食料の調達、確保に腐心し、96年2月に3度目の挑戦をしたが、″3度目の正直″はならず断念した。そして、97年5月、4度目の挑戦で途中補給を受けながらついに北極点に達した。過去3回の失敗に学んでの成功だった。
続いて、98年11月に南極大陸3800`横断に挑戦、99日間連続の苦闘の末成功する。南極特有のカタバ風(烈風)や、それによってできるサスツルギ(雪面の波形)、不気味なクレバス、ホワイトアウトなど自然の脅威に敏感に素直に相対しながら克服していった。本書にはその様が淡々とつづられている。
まさに「やったぜ」という気分だろうと思う。この生き方こそ「人間のロマン」であろう。
私などは、とてもこのような冒険旅行はできないが、せめて笑って死ねる人生を送りたいと常々思う。読了後は実に爽快な気持ちであった。
−エゴがぶつかる人間たちの狂気−
あらすじ 東京・隅田川沿いの公園から女性のものと思われる切断された片腕が発見される。捜査陣は「バラバラ事件」と色めき立つが、それは「人間狩り」を楽しむ犯人からの最初のメッセージにすぎなかった。被害者が2けたにもなる連続殺人。その劇場的犯罪の舞台に登場する役者は、その主役は誰か。はたまたその演出家はどこに……。直木賞作家の3年ぶりの現代ミステリー。
読んでみた 2段組み上下1420nという大長編も、事件のあらましはその3分の1程度を占める第1部で明らかになってしまう。しかし犯人側から描いた第2部、そして事件が解決したと思われるところから始まる第3部で、「人間狩り」の持つ特異性が次第に明らかになるにつれ、1部で知り得た事実がいかに皮相的なものだったかが分かる。実は作者の意図はここにあるのではないか。事件の上っ面だけを見て騒ぐテレビのワイドショーに代表されるマスコミ、そして自らを安全な所に置きつつ「猟奇事件」を楽しむ視聴者。これを描く作者の痛烈な皮肉が面白い。
物語は人々のエゴがぶつかり合う形で進む。中でも殺人犯の娘がすごい。「父は事業に失敗しお金がいるから犯行に及んだだけ。悪い人ではない。父の減刑嘆願書に署名しろ」と被害者の遺族に迫る狂気こそ、蝕まれつつある現代社会の象徴ではないか。読み応えのある長編だ。
ひとこと ひとりよがりな猟奇殺人を展開する物語が何故「模倣犯」なのか。そのなぞは最後の最後に隠されていた。 (A)