毎日新聞−2001年(平成13年)04月16日(月)

チンパンジーは進化の隣人
 鏡に映った「私」

 鏡に映った像を見て、自分だと分かる。一見当たり前のようだが、これがなかなか難しい。ニホンザルなどのサルに鏡を見せると、大抵は「ワッ」と口を開けて怒る。あるいは視線をそらし、歯茎をむき出して泣きっ面をする。要するに、自分だと分かっていない。やがて、何か変だと気が付くのだろう、鏡の裏側を探るようになる。

 人間の子供でもそうだ。鏡に映った像を見て、自分だとすぐに分かるわけではない。成熱と経験が必要だ。
 おおまかに言うと、鏡に対する振る舞いは3段階で発達する。最初は「他者への反応」だ。人間の赤ん坊も4〜5カ月になると、鏡をじっと見るようになる。鏡に向かって声を出したり、手を伸ばしたりする。さらに、笑いかけたりほおずりもするようになる。大体6〜8カ月がピークでこうした反応は1歳半ころまでには消えていく。
 次は、「鏡の像の探索」だ。鏡を見ながら自分の体を動かしたり、鏡の裏側をのぞき込む。鏡を見ながらその背後に手をまわして虚像の位置を探るようにもなる。こうした仕草は、1歳ころ項点に達し、やはり1歳半ころまでに消失する。探索から約3カ月遅れて、「しり込み」も見られるようになる。鏡から目をそむける。泣き出す。1歳半から1歳後半を特徴づける振る舞いだ。
 最後に、「自己認識」の時期が来る。これは1歳半ころに始まり、2歳でようやく過半数の子がその域に達する。鏡をじっと見つめながら、口を開けて歯の様子を見たり、額の傷に手を持っていったりする。「鏡の像が自分だと分かっている」といえるだろう。

 自己認識の芽生えを測る簡単なテストがある。子供と遊んでいるときに、その額やほおに赤い口紅をさっと塗る。舞台のメーキャップで使うおしろいでもよい。異変に気付かれないよう注意をそらす。赤ん坊は、自分の目ではその印が見えない。しばらくして鏡を見せる。2歳ならば、鏡を見ながら手は自分の顔についたその印を触るだろう。
 アユム、クレオ、パル。3人の赤ん坊チンパンジーにも毎週1回鏡を見せてきた。アユムたちは生後3〜4カ月のころから、鏡を見てにっこりと笑い始めた。1歳が近づく今、アユムはさかんに鏡の裏側を手で採る。ここまで、基本的にはヒトと同じ時点で同じ経過をたどっている。鏡を見て、この先いつごろ自分だと分かるようになるのだろうか。

 おもしろいのは、体と心の発達にずれがあることだ。ヒトは平均して8カ月で乳歯が生え姶め、2歳半ころ20本が生えそろう。チンパンジーは約3カ月で歯が生え始め、1歳ころに生えそろう。つまり、体の成長だけ見ると、チンパンジーはヒトの2〜3倍の速さでどんどん成長する。それなのに、鏡の認識の発達スピ−ドがほぼ同じということは、ヒトと比較して、心の発達が遅いということだ。 逆に言えば、人間の赤ん坊は、体が未熟なうちから心がどんどん発達していく
                                                        (京都大霊長類研究所教授)

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