毎日新聞−2001年(平成13年)04月16日(月)

「専門家にも論理で迷い」

 太古に隔離された豪大陸には独自の動植物が生息する。カンガルーやコアラと同じ有袋類だが肉食獣として進化したタスマニアン・タイガーは、先住民が持ち込み野生化したデインゴ(山犬)との競合に敗れ、豪南端に浮かぶタスマニア島だけに生き残っていた。そして、白人の入植が彼らを一層追い詰めた。
 19世紀後半、移民のヒツジやニワトリを襲うようになったタイガーは懸賞金付きで駆除され、数十年で姿を消した。同島では今もタイガーの生存を信じ、証拠を深し求めて多雨林を歩き回る人がいる。経済社会の犠牲になった動物への哀惜が現代人のロマンをかき立てるのだろう。
 今回のプロジェクトを提案したアーチャー館長は当初、「10年で復活させてみせる」と宣言した。実務責任者のコルガン博士は慎重だったが、最近の生命科学の発展ぶりを考えると、クローン・タイガーも意外に早く誕生するかもしれない。

 米国のバイオ企業「アドバンスト・セル・テクノロジー」は今年1月、絶滅寸前の野牛ガウルから9年前に採取した凍結保存DNAを使い、代理母の家畜牛にクローン・ガウルを出産させることに成功したと発表した。この子牛は2日後に感染症で死んだが、絶滅動物復活にもいよいよ道筋がついたといえる。
 技術とは本来、試行錯誤を繰り返し、経験を積んで磨かれるものだ。しかし、実験記録を読めば同じことができる科学は長い苦労を必要としない。開発されたマニュアルに次々と新しい工夫が加わり、相乗効果を生む。SF物語でしかなかったクローン生物は短期間のうちに世界中で現実となり、今や人間の複製までが議論されている。

 「動物のクローンは許され、人間に許されない理由は何か」「病気の治療を目的とするクローン技術ならよく、不妊の解決には好ましくないという根拠はどこにあるのか」。素人の私は率直に聞いたが、博士はしばしば「難しい問題だ」と言葉に詰まった。専門家でさえ急速に進むバイオ技術に倫理的な基準をどう設定すればいいのか迷っている様子だった。
 野生動物が滅ぶのは痛ましい。タイガーが蘇れば大きなニュースとなるはずだ。しかし、博士も認めたように、誕生するタイガーは異なる母体と環境で育った元のタイガーとは微妙に違う生き物なのではないかそれを作り出すのが絶滅させた責任を取ったことになるのだろうか。「よみがえったタイガーはペットに最適」という軽薄な宣伝も流れる中、一連のクローン論議には、かけがえのないものを失う意味を忘れさせかねない科学の「おごり」すら感じる
 DNAを採取されたタイガーの標本は今も高さ40aほどのガラス瓶に入り、博物館の片隅に展示されている。滅ぶ運命の中で精いっぱい生きたのだろう。白い子犬のような幼獣は、背中を丸めて両目を閉じ、安らかに眠っているような顔をしていた。

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