毎日新聞−2000年(平成12年)12月10日(日)
先端的な生命科学が変える末期医療の現場で、いのちの尊厳や患者の自己決定権、がんの「告知」の問題などを追った社会面の連載「いのちの時代に−第4部 静寂のかなた」(11月)に、多くの反響が寄せられた。限りある生命をどう全うし、「死」という現実をどう受容していくのか。自身や家族の体験をつづった投書の内容は、ひときわ重く、深い。取材記者の報告とともに、それらの一部を掲載する。 【「いのちの時代に」取材班】 |
末期医療では盛んに「QOL」(クオリティー・オブ・ライフ=生命の質)という言葉が使われる。生命維持装置などで生かされるのではなく、いかに自分らしく生きるか。そこに、在宅医療が支持される理由があるのだろう。しかし、個人の家にまで機械は入り込みつつある。そのとき、自分ならどうするか。そう考えながら、私(記者)はこの取材を始めた。
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「妻の心臓は動いている。生きているんだ。水(点滴)をやらずに、死ぬのを待つというんですか」
ほとんど意識のないままベッドに横たわる恭子さん=仮名=を前に、夫は顔を真っ赤にして怒鳴った。点滴をしても、衰えた細胞は栄養分を維持できない。それがもとで腹水や胸水がたまり、全身は水ぶくれのようになっていた。それでも、家族は延命にこだわる。医師の西村知里さん(31)はつらかった。
末期の肝臓がんと診断され、自宅での最期を望んだ恭子さんから、西村さんは以前「少しでも楽になりたい」と頼まれていた。医師の考えを押し付けることはできないが、患者を苦しめるだけの点滴はしたくなかった。しかし、点滴中止を打診する西村さんに、家族が出した答えは「ノー」だった。
「苦しいですよね。ごめんなさい」。心の中で泣きながら、点滴の指示を出し続けたことを覚えている。1998年7月のことだ。
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「妻のことでお会いしたいんですが」。西村さんが電話を受けたのは、外来診療中の夕方だった。白髪交じりの中年男性は、末期がんの53歳の妻が在宅医療を望んで退院間近なこと、往診をしてくれる医師を深していることを話した。その患者が恭子さんだった。
西村さんは大学を出て、麻酔科などで2年間の研修をした後、開業医の父親のもとで地域医療の現場に飛び込んでいた。研修中、医師の目線の高さに違和感を覚え、大学病院を辞めていた。恭子さんの前に、5人の末期患者を在宅でみとってきた。自信はあった。
ところが、病状の進行は想像を超えていた。退院するとき、すでに口からの栄養補給ができなくなっていた恭子さんは、鎖骨下の太い静脈に点滴の管をつないだIVH(中心静脈栄養)をつけたまま、自宅に戻った。意識は徐々に薄らいでいく。本人の意思を確認できない現実が葛藤を深めた。点滴をやめて、安らかな最期を迎えさせてあげたいと思う西村さんと、目の前の生命に執着する家族の願いは、すれ違った。
何度も話し合い、点滴の量を必要最小限にすることには同意してもらった。しかし、点滴で膨らんだ体に利尿剤を入れては、おしっこを出させるという矛盾した作業は、最期まで続いた。「これでは延命至上主義の病院と変わらない」。西村さんにはそう思えた。
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自宅での療養を始めて18日目。恭子さんは54回目の誕生日を迎えた。日付をまたぐのは難しいと西村さんが考えてから、4日が過ぎていた。長女らの手作りのバースデーケーキと、たくさんの花が飾られた部屋に足を踏み入れたときのことだ。空気が、どこか違っていた。家族から死への恐怖が伝わってこない。目が穏やかになっている。
「家族は、どうしても誕生日を迎えさせてあげたいと思っていたんだ。そして、その愛に応えるために、恭子さんは頑張り続けてきたんだ」。西村さんは、そのとき、初めて理解できたような気がした。在宅死の意味を頭だけで考えていた自分に気付かされた。
誕生日の翌日、恭子さんは眠るように息を引き取った。しかし、最期まで点滴を続けた体はパンパンに膨れ、「陸の上の溺死」そのものに思えた。「家でみとれてよかった。母も喜んでいると思います」。別れ際、長男はそう言って頭を下げた。だが、決して晴れやかな表情ではなかった。今も、末期患者への点滴には賛成できない。ただ、在宅死の在り方は一通りではない。西村さんは、そう考えるようになった。
【千代崎聖史】
★苦しまずに死にたい★ 私はがんで今年4月に余命1年と診断されました。幸い治療の副作用を除けば痛みもなく、メールのやり取りも、かけがえのない楽器の演奏もできる状況です。朝起きてから夜寝るまで、頭の中は「苦しまずに死ねるか」ということでいっぱいです。そもそも医者に人の生死を決める権限などあるのでしょうか。せんだってテレビで安楽死を扱っていたが、なぜ画一的に決める必要があるのでしょうか。「やりたいことはやったし、これ以上生きても周りに迷惑をかけるだけだから、もうここらで死にたい」と考えれば、そのような処置をしてあげるべきだし、「どのように苦しんだとしても最後の最後まで治療に耐えるのだ」と考えれば、そのような処置をしてあげるのが医者の責務だと思う。人間は置かれた状況に応じて自由に死を選ぶことができるはずです。個人の死に方に、なぜ法律が関与する権限があるのでしょうか。 |
★祈り救われることも★ (ビハーラ僧を取り上げた記事を読み)住職の中にも、日本の仏教が葬式仏教になっていることを嘆いている方がいてほっとした。私は無宗教だが、病に伏し、死を見つめながら生きていかなければならなくなったとき、心の平安を得るために、友人や知入ではなく第三者に話を聞いてもらいたい。動けるうちは、自ら出向いて胸の内を話したい、打ち明けたいと思ったりするかもしれない。そんなとき、日本のお寺が宗派にかかわらず、受け入れてくれるだろうか。 |
★絶対に告知すべきだ★ どんな難病であれ、「病名の告知は必要だ」というより「告知すべきだ」と考える。私は1994年に慢性骨髄性白血病で骨髄移植を受け、命を取り留めた。 |
★延命治療しない決意★ 私の母は3年に及ぶアルツハイマー症による痴呆で、真夜中の徘徊や排泄物の垂れ流し、ところ構わぬ電話で、妻と私は介護に疲れ果てた。老人専門病院に入院させたが、入院当日から入れ歯を取り上げられた。ある日、見舞いに行ってみると、両手両足をベッドに縛り付けられ、点滴を4本受けていた。医師に点滴の内容を聞いても明確な答えが返ってこない。申し入れて栄養点滴1本にしてもらった。半年後、母は急死した。入院していた10カ月間、母の尊厳はないがしろにされ続けた。私たち夫婦は、母の哀れな最期をみて、尊厳死協会に加入した。生きる屍としての延命治療はしてほしくない。 和歌山県白浜町、主婦(65) なぜ日本では、人の命の尊さばかり主張して、死ぬ権利に耳をふさごうとするのか疑問だ。死は人生の卒業であり、自然なことであるはず。日本では、死を忌み嫌うような教育をしている。命の専さと同じくらい、もっと死ぬ権利について議論してほしい。 |
★医学おごっている★ 拒否した抗がん剤を、患者の意思を無視して医師団が勝手に投与する。瀬川宗助さんの記事を読み、医学の進歩のおごりが人の命を勝手にいじっているように思えた。「枯れ木が倒れるように死にたい」と瀬川さんは希望された。しかし瀬川さんの功績に対し、その医術が裏切った。家族にとって、その人への思いは他人の理解の外だ。命はその人個人のものだ。瀬川さんは、自分と自分の命に対して尊厳でありたいと思ったのではないか。家族の無念さを思うと、涙が出てくる。尊厳死とは何か。人を敬い、死を尊ぶということではないか。私たち夫婦もよく話し合う。なかなか答えは出ないが、心が自然体であれば、案外結論が出るのかもしれないと思っている。 |
★難病の夫を支えたい★ 58歳の主人が8月、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病に認定された。筋肉が委縮し、最後はまばたきだけの生活になる。そこに行くまでには両手両足、気管もだめになり、人工呼吸器を着ければ10年、20年生き延びるといわれるが、主人は「着けない」と医師に話した。 |
★安楽死もっと議論を★ (安楽死を扱った1回目の記事を読み)救われる思いがした。(当時の高裁判事で現・日本尊厳死協会会長の)成田薫さんの「安楽死も条件次第で認められるべきだ」との考えに同感だ。医学の進歩と高齢化社会の中で、「死の権利」は人間が最も主張しなければならないことだと思う。今、息子はただ単に心臓が動き、脳幹が生きているとの理由で法的に「死」は認められず、植物状態の人生が続いている。機械で生かされているだけ。それが実感だ。人間の尊厳とは何か。私は心であり、感情だと思う。それを失っても、人間は生きなければならないのでしょうか。上っ面だけで命の大切さが認識され、生かすことだけに重点が置かれ、本当の意味での命の専さは失われてしまっているような気がする。日本でも「安楽死」に関する大掛かりな検討会を考える時期にきているのではないか。 |
★遺言書き専厳死宣言★ 「脳幹出血で心肺停止。意識は戻りません。連絡が取れるよう待機して下さい」。突然の夫の脳死診断だった。倒れる1週間前、「ぽっくりいきたい。介護を要する人間になるのはいやだ……」とのメモを残していた。葬儀や墓は不要、献体を。そんなことも話していたが、私は聞き流していた。意識が戻れば確認しようと思っていたが、夫の病状は変化がない。医師は「人工呼吸器は外せない。3カ月たてば1等級の認定が受けられる」と言った。何度かの危篤状態を繰り返すと、今度は「人工呼吸器を装着するといつまでも延命できます」。1年半後、夫は死去した。 |
★遺伝性の病・・・悔しい★ 私の実兄の妻が8年前、脊髄小脳変性症になり、現在も入院している。現在では、流動食をチューブで直接入れてもらい、何とか生きている状態で、目は開けることもなく、一言もしゃべることができず、体は細い棒切れのようになっている。兄も一生懸命働いているが、入院費用が負担になっている様子が私には分かる。そして、一番心配していた遺伝が現実のものになってしまった。子供が同じ病名を告げられた。まだ、足が少しふらついたり、ものを持つのがつらいといった初斯症状だが、本当に悔しい。新薬の開発が一日も早く実現してほしいと思う。(記事に出てくる)直美さんに、同じ苦しみを持つ人間がここにもいる、お互い頑張りましょうと伝えたい。 |
★本人の意思を第一に★ 今年1月に末期の肺がんで弟を亡くした時、主治医は「告知して治療する」と強硬に言われたが、家族の意思で患者の性格上告知しないよう頼んだ。主治医からは「告知しないから看護婦たちが治療をしにくくて困る」と言われたが、本人の性格を知っているのは医師より家族の方である。治る見込みがある場合、告知して闘う姿勢は必要だと思うが、末期の場合、人によって違うが、告げなくてよかったと思った。これを機に、私も家族と話し合って告知の有無をはっきり決めることにした。告知はできるだけ医師でも家族でもなく、やむを得ない場合を別として、本人の意思を第一にしてほしい。 |
「いのちの時代に 第4部 静寂のかなた」 連載の内容 |
第1話 看病疲れから寝たきりの父親を殺害した長男。判事は、世界で初めて安楽死が認められる条件を示し、猶予付きの温情判決を出す |