毎日新聞−2000年(平成12年)10月27日(金)
【シドニー26日河嶋浩司】
陸上男子走り高跳びF46で、自らが持つ日本記録1b81aをクリアできず6位に終わった鈴木徹選手(20)は「世界の実力を知った。次の目標ができた」とアテネヘの挑戦を誓った。右足を失って1年8カ月。パラリンピックに日本で初めて出場した義肢のジャンパーだった。
男子走り高跳びF46で1b78の記録に終わった鈴木徹選手 =オリンピックスタジアムで26日、石井論写す |
この日、1b75a、1b78aは2回目でクリア。1b81aは3回挑んだが、バーを越えることはできなかった。「いつもの自分のリズムじゃなかった」
高校時代はハンドボール選手として国体3位の経験も。昨年2月、スポーツ推薦で筑波大学への進学が決まった直後、自動車事故で右足を複雑骨折した。医師は切断を迫った。看病する母親に「移植できる右足を買ってきて」とせがんだ。
病室に閉じこもって1週間。決心がついた。
大学は1年間休学してリハビリ生活。最初は満足に歩けない。そんな鈴木選手に走り高跳びを勧めたのは、義肢を調整してくれる「鉄道弘済会」の臼井二美男・義肢装具士だった。「高い運動能力を持っているから、義肢を付けてもアスリ−トとしてやっていけると思った」という。
ハンドボールで培った負けん気とばねで、めきめき力をつけ、事故からわずか1年余りのジャパン・パラリンピックで、日本新記録で優勝という快挙。臼井さんがシドニー入りするまでの間、選手村の技術センターで義肢を調整してもらったが合わず、右足の切断面に傷ができた。でも「足の傷は今日の試合とは関係ありません」ときっぱり。すっかりアスリートの顔になっていた。