毎日新聞−2000年(平成12年)10月16日(月)
5年前の阪神大震災。良き理解者だった勤め先の総務部長が、倒壊した自宅の下敷きになって亡くなった。宮本日出子さん(53)は社葬会場に供えられた文集に決意を書いた。「バラリンピックに出ます。ありがとうございました」。一度はあきらめたエアライフル。再挑戦が始まった。
宮本さんは20歳の時に病気で左足を付け根から切断した。エアライフルとの出合いは、11年前に神戸市であった障害者の国際大会。市が急きょ養成する選手に選ばれた。義肢を着けた宮本さんは姿勢を維持できないため、自作のいすで体を支えて競技に臨む。しかし、健常者と互角に戦える競技。のめり込んだ。
1年後、情報機器のソフト開発会社の採用面接で、恐る恐る国体出場のための休暇がとれるか尋ねた。その総務部長は快く認めてくれた。「頑張れよ」。入社後、練習や試合に行く宮本さんに部長はいつも声を掛けてくれた。しかし、宮本さんは「試合先でトイレを探すのもひと苦労。次第に競技生活が苦痛になって」1992年、銃を置いた。
「神戸の障害者の意地を見せたい」。震災の犠牲になった部長の霊前に誓って再び銃を手にとった。かつての練習場は救援物資置き場になっていた。代わりに会社が終業後、社員用の休憩室を練習に使わせてくれた。壁の部長の遺影がいつも見守っていた。
復帰後、健常者に交じって96年の国体で3位、97年2位。昨年から国際大会にも出場し、出場の目安となる標準記録を突破した。障害者が銃を所持することへのアレルギーがネックとなって、日本では射撃競技は浸透してこなかった。しかし、今回のパラリンピックで、宮本さんら4人が日本から初めて出場する。関係者は「草分け的存在の宮本さんの功績が大きい」と評価する。
スコープ越しに狙う10b先の標的のわずか0・5_の点。筋肉の緊張や息遣いで照準は微妙に揺れる。「今だ」。引き金を引くその瞬間。「命の鼓動が聞こえるのよね」。エアライフルの魅力を宮本さんはそう語る。「障害者の射撃を世間に認知してもらう足がかりはつくった。部長との約束も果たした。あとは、自分との勝負」。新たな″命の鼓動″を聞くため、シドニーの大舞台に挑む。=つづく