毎日新聞−2000年(平成12年)10月16日(月)

こども論

    少年法改正論議 −犯罪の元凶に目を向けよ−

 果たして明日を担う子どもたちのためになるのか。与党3党が国会に提出した少年法改正案。刑事罰の対象年齢の下限を18歳から14歳に引き下げ、殺人などの罪を犯した16歳以上の少年は原則として刑事裁判を受けさせようとするものだが、少年事件の専門家からは効果を疑う声が相次いでいる。

 改正案をめくる論議は、突き詰めれば教育論争となる。少年法は少年の健全育成を目的に、家庭裁判所での少年審判では審判官(裁判官)が少年と向き合い、心を開かせながら真実を語らせ、非行の原因を探る。そして、少年院などで教育によって反省させ、生活環境に害毒があれば取り除いて少年を立ち直らせる。

 これに対し、刑事裁判では検察側と弁護側が証拠を争い、刑事責任の有無を決する。黒白を争う以上、極言すれば、言い逃れやウソでその場を切り抜ければよい、と考える少年が現れても不思議でない。どちらが少年のためになるかは自明である。

 それでも少年に刑事裁判を受けさせようとする理由の一つは、抑止効果への期待だ。きつく罰すれば犯罪を起こさないという理屈だが、犯罪を起こす少年は一般に是非善悪はもちろん、自分の将来への影響、被害者や家族が受ける打撃を推し量ることが苦手だ。厳罰化したところで、こうした少年の非行が収まるとは考えにくい。

 「少年は死刑にならないので殺した」という少年の供述が衝撃を与えたが、「死刑にならないこと」は犯行の動機ではない。「そこに山があるから登る」という登山家の言葉に、人々は山へのさまざまな思いを感じ取ろうとするのに、「殺してみたかった」といった少年の断片的な供述を言葉面で捕らえて騒ぐのも賢明ではあるまい。

 少年犯罪の元凶は、教育や家庭でのしつけにある。教育の見直しや規範意識の高揚策といった本質にかかわる論議を抜きにし、対症療法的に処罰することばかり検討しても、抜本的な解決にはならない。それを承知で、時間を要し、成果も簡単には表れない教育改革などは票にならぬと敬遠し、安直な改正案をまとめたとするならば、政治家としての責任放棄である。

 被害者救済の観点から厳罰化を進めるという考え方も、人として前向きとは言いがたい。確かに少年法は被害者救済の観点を欠く。人を殺した少年が3年ほどで少年院を退院するのでは遺族が納得しない、という考えにも一理がある。報復願望はぬぐい去りがたいものだからだ。

 昨今、聖職と信じていた医者や教師、警察官らに裏切られる事件が相次ぐせいか、″悪党″を懲らしめようとするリンチ志向の風潮が社会にはびこり出したように映る。だが、「罪を憎んで人を憎まず」を合言葉に、目には目を式の応報刑から教育によって犯罪者を更生させる教育刑へと、発想の転換に努めてきたのが近代以降の歴史ではなかったか。

 冷静に見つめれば、その理想の灯を消さねばならぬほどに、少年犯罪の現況は深刻とは考えにくい。殺人の件数などは半世紀で10分の1以下に減っている。今よりも凶悪といわれた時期を現行の少年法で乗り切ってもきた。非行や犯罪を生む土壌をいかに改善するか、知恵を出し合うのが大人としての責務である。

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