読売新聞−2000年(平成12年)10月09日(月)
感動のシドニー五輪に続いて今月18日、「もう一つのオリンピック」シドニー・パラリンピックが開幕する。この大舞台の砲丸投げと円盤投げに、仙台市青葉区の東北福祉大職員中島嘉津子選手(28)が出場する。本格的に競技を始めてわずか4年。世界のひのき舞台に躍り出る中島選手は、「だれでも可能性は持っている。これからスポーツを始めようとする人たちの励みになるよう、「思いっきり投げる」と闘志を燃やしている。
投げ込みは1日平均50球近く。本番に 向け、練習にも熱が入る中島選手 |
中島選手は出産時の酸素欠乏で脳性まひとなり、右半身が不自由になった。歩けるが右足に力が入らず、右手の握力もほとんどない。小、中学校を通じ、体育はほとんど見学だった。
「走るとか単純な運動は別として、鉄棒やマットなど、少しでも危険が伴うものは、やらせてもらえなかった。それがすごく嫌というか、胸につかえていた」
日常生活はすべて左手と左足でこなす。左腕が蚊に刺された時は、右手のつめを立てて刺された方の左腕を動かすのだそうだ。「いろいろ工夫して何とかやっています」と笑顔を見せる。
そんな不屈の精神が、本格的に陸上競技を始めるや才能を開花させた。
1996年、県・仙台市障害者スポーツ大会出場をきっかけにめきめき力を伸ばし、翌年9月のジャパンパラリンピックは日本記録で優勝。次いで98年8月、IPC世界陸上競技選手権大会(イギリス)優勝、99年1月には極東・南太平洋障害者スポーツ大会(フェスピック大会、タイ)でも優勝。そして今年5月、ジャパンパラリンピックでシドニー切符を勝ち取った。
練習環境にも恵まれた。同大陸上部の小関浩信監督は、中島選手が同大職員になる前からの付き合い。同大陸上部砲丸投げの掘文選手(4年生)は、仲間として、特にはコーチとして中島選手を支えてくれた。
母の喜美子さん(58)に女手一つで育てられた。泣いて帰ると、「めそめそしてるんじゃない!」と大声で怒られた。「障害があって良かったんじゃないかと、娘と話すことがあるんです。障害があったから、私も娘も一生懸命生きてこられた。なければ、ちゃらんぽらんになっていたんじゃないかって」。喜美子さんはそう語る。
「でもね」−中島選手が切り出した。「私には直接言わないんですけれど、母は祖母や弟にいつも『五体満足に産んであげられなくて、嘉津子は悪いことをした』と漏らしていたそうなんです。パラリンピック出場が、そんな母のつらい思いを晴らすことになれば、本当にうれしい」
中島選手得意の種目、砲丸投げの決勝進出ラインは8b。6月上旬、コントロール重視のステップ投法から、距離重視のグライド投法に変え、練習ではしばしば8bを越すようになった。
「やるからには目標はメダル」と小崎監督がハッパをかけると、中島選手も「私も同じ思いです」ときっぱり。その言葉に東北の障害者スポーツ界の第一人者の気概がこもる。砲丸投げは23日、円盤投げは25日。母と娘、監督と選手たちの苦難のストーリーに、ハッピーエンドを送りたい。 (深山 真治)
子を思う親の気持ち、親を思う子の気持ち、しみじみと心に染み込んできます。頑張れ! 頑張れ! 自分のために、自分を応援してくれる人たちのために。 |