読売新聞(岩手県版)−2000年(平成12年)10月02日(月)
スポーツ |
閉会式が始まった。選手たちが待ちきれないようにグラウンドに飛び出した。国や人種を超え、肩を抱き合い、笑い、友情を分かち合う。
派手な演出や華やかさばかりが目立ち、選手の体調など無視したやたら時間の長い開会式と比べ、閉会式はいたってシンプルで、クリアだ。
閉会式がこのようなスタイルになったのは、44年前のメルボルン大会からだ。当時、17歳の中国系豪州人青年が出した一通の手紙がきっかけだった。「選手たちが一緒にスタジアムに入り、戦争や政治、国籍を超えて、一つの国として自由に歩いたらもっと楽しくなると思う」。白人優先の白豪主義がまだ幅を利かせていた時代、自分の姿と重ね合わせて書いたのかもしれない。この手紙が組織委員会や国際オリンピック委員会を動かし、以来、″非整然″としたこのスタイルが定着するようになった。
あらゆる国の選手が混在し、融合する閉会式。それは白豪主義や少数民族アボリジニへの差別を脱却し、多民族・多文化国家を築こうとしている現在の豪州の姿であり、また五輪が希求する「真の平和と友好」の象徴でもある。東ティモールの参加や南北朝鮮の合同入場行進は、そのような五輪の理想を端的に表したものだった。
五輪旗がシドニーからアテネに渡り、今世紀最後のオリンピックは幕を閉じた。商業化や肥大化、そしてドーピング禍など次世紀に持ち越された課題は少なくはない。新世紀第1回の五輪は再び発祥の地、アテネヘ。五輪の原点をもう一度見直すのにこれほど格好の場所も時間もない。 (新妻 千秋)
コアラの国で−国の枠超え培った同胞愛 ●コンラッズ |
五輪閉会式で、選手が各国別に並ぶのではなく、一つの集団になって入場するようになったのは、前回オーストラリアで開かれた、56年メルボルン五輪からだ。私は、その渦の中にいた。15歳で、人生最初のオリンピックだった。 入場を待っている間から、もう我々は五輪で知り合った友人などを探して、国の枠などを超えて交じり合い、パーティーのような雰囲気だった。スタジアムでは、観衆の拍手と歓声と笑顔に迎えられ、途方もなく素晴らしいものの一部なのだという実感に興奮した。素晴らしいものとは、今考えると、スタジアム中が一つに溶け合った、友情と同胞愛だったのだと思う。 五輪で培われた友情とは不思議なものだ。私は60年ローマ五輪の競泳男子四百、千五百b自由形で、マレー・ローズ(豪)、山中毅とし烈なライバル関係にあった。でも、時がたつにつれて競争したことは忘れ、固い友情だけが残る。今ではローズ、山中ともに、素晴らしい友人だ。 競争相手が友人に変わるのは簡単だ。四百bで優勝したローズは、私を負かして金メダルを勝ち取ったのではない。私が自分自身に負けて、金メダルを失ったのだ。敗れるのは、自分のレースに集中しきれず、最善を尽くせなかった自分の責任だ。 敵を憎むという行為は、中世の戦争ならともかく、今では全くの時代遅れだ。今の選手たちは、不倶戴天のライバルでも、プールから上がる前に、既に友人に戻っている。互いに人生を、一つの目的のためにつぎ込んできた同士。その瞬間は失望に沈んでも、互いの達成したものへの尊敬が、心に生まれるのに時間はいらない。 今は、五輪に参加した元選手たちのクラブ組織があり、1年に一度再会して旧交を温める機会がある。ここシドニーでも、市内にクラブの本拠地があり、オリンピアン(五輪選手)ならだれでも加入することができる。我々はこうして培われた友情を、その後の人生に長く保つことができる。 聖火が消える時。それは多くの選手にとって、つらい日々への終止符という安ど感であるとともに、素晴らしい大会期間中の体験にも、いつか終わりが来るという、悲しい事実を思い出す時だ。しかし、生まれた友情と、オーストラリアの大観衆の熱狂に象徴された同胞愛は、選手たちの心に、長く消えずに残るだろう。それはオーストラリアが、誇りを込めて振り返られる財産でもある。 |